モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart (1756〜1791、オーストリア) 

 

 年譜ではなく、私の愛読書から引用させてもらいます。このHPの最初のモーツァルトとして、ピアノ協奏曲第二十番ニ短調を取り上げるので、この曲を中心にしたモーツァルト解説になります。

 

 

志鳥栄八郎著「クラシック名曲ものがたり集成」より


 

 

 モーツァルトは、1781年の5月に、それまで仕えていたザルツブルク大司教と喧嘩別れし、音楽の都ウィーンで自活の道を踏み出したが、これは当時の音楽家の置かれていた社会的地位からすると、大変危険な賭けであった。自由な芸術家として活躍し、世間の尊敬を受けるなどというのは思いもよらぬことで、経済的な安定をはかるためには、貴族たちのお抱えの音楽家を続け、主人のご機嫌をとり結ぶ必要があったのである。父親のレオポルドは、息子の将来を危惧して、何とか主君に詫びを入れさせ、事が丸く収まるよう八方手を尽くしたが、モーツァルトは、そうした父親の意向を徹頭徹尾無視し、ついに自分の希望通りフリーの音楽家の道を選ぶのである。

 モーツァルトは、天才の常として社会的な常識や社交術はゼロといってもよいくらいに乏しく、そんな息子がはたして権謀術数の渦巻くウィーンで、うまくやっていけるのかどうか、レオポルドにはそれも心配の種であった。結局はレオポルドの案じたとおり、ウィーンでのモーツァルトの生活は十年しか続かず、過労と貧乏のため、あたら35歳の若さで早死にしてしまうのであるが、モーツァルトがウィーンで独立した時には、彼なりに一つのはっきりとした成算があった。それは、ウィーンでなら、名ピアニストとしての彼の才能を生かしてやっていけるという目算である。当時のウィーンのピアノ音楽に対する熱狂ぶりは大変なもので、貴族たちは自分でもピアノを弾き、自分の子どもたちにもピアノを習わせた。ピアノ演奏会も盛んで、ピアノ音楽の新作をみな争って求めた。

 このウィーンでなら、窮屈な宮仕えをしなくとも自活できる。―モーツァルトは、そう考えてザルツブルク大司教と意見が衝突したのを機会に、きれいサッパリと勤めをやめてしまったのだった。最初は彼の思惑どおり、大体において順調であった。天才モーツァルトの名はヨーロッパで誰一人知らぬ者はなく、ピアノの授業や作曲の教授を受けたいとやってくる者は、さばききれないほどの量だったし、また彼の新作や旧作からなる予約演奏会は、いつも盛況であった。

 モーツァルトは、1784年の3月3日付けの父親宛の手紙の中で、こんなふうに報告している。

 

 「この頃はあまり手紙が書けなくて申し訳ありませんが、ほんとうにその暇がありません。17日から始って四旬節の最後の三週間は、毎水曜日にトラットナーのサロンで三回の予約演奏会があります。予約者は、もうすでに100人ほど集まりましたが、その時までにまだ軽く30人はふえるでしょう。三回分の演奏会の入場料は6グルデンです。劇場でのアカデミー(演奏会)は、今年はたぶん二回になります。・・・・毎日午前中は弟子も教えねばならないし、夜はほとんど毎日演奏です。」(属啓成氏訳)

 

 そして、このあとに続けて五週間分のスケジュールを記しているが、それによると、ほとんど一日おきぐらいに演奏会があり、それに出演している。この当時の演奏会は、自作を演奏するのが原則で、そのための作曲もしなければならず、この頃のモーツァルトが、現在の神風タレント並の忙しさであったことは間違いない。

 父レオポルドが直接ウィーンに出向いてモーツァルトの売れっ子ぶりをその目で確認したのは、翌1785年の春のことで、遠路はるばるウィーンに着いたその夜(2月11日)、メールグルーベでモーツァルトの新作のピアノ協奏曲を含む予約演奏会が開かれている。もちろんレオポルドも、この演奏会に出席し、その模様をザルツブルクで留守を預かる娘のナンネルに宛てて次のように書いている。

 

 「演奏会はたとえようもないほど素晴らしかったが、オーケストラもすぐれていました。交響曲(複数)の他に、イタリアの劇場からきた女性歌手が二曲のアリアを歌ったあと、ヴォルフガング新作のきれいなピアノ協奏曲も演奏されたが、私たちが(ちょうどウィーンに)着いた時は写譜屋がきて写譜中だったので、お前の弟は写譜のできたロンド(終楽章)に目を通しただけで、それを一度弾いてみる時間もなかったのです。・・・(属啓成氏訳)

 

 この中でレオポルドが「新作のきれいなピアノ協奏曲」と言っているのは、前日(2月10日)に完成されたばかりの「第二十番ニ短調」のことである。レオポルドは、このあと4月25日まで、約一ヵ月半にわたってウィーンに滞在し、モーツァルトの家に足を留めたが、その間に私的、公的の演奏会を合わせて全部で17回もの演奏会が開かれ、レオポルドは、あらためて息子の売れっ子ぶりに目を見張ったのだった。

 レオポルドは、ウィーンのモーツァルトのアパートに落ち着いた時、息子が豪華なアパートに住み、自分がザルツブルクでもらっている給料よりも高い部屋代を払っていることを知って目をむいたが、このように忙しい毎日を送っていることを見せつけられて、すっかり安心した。そして、息子の将来に対する不安はもはや解消したと考え、満足感に浸りながらザルツブルクに引き上げたが、神ならぬ身の彼には、その後のモーツァルトの人気の凋落を予見することはできなかったのである。

 このレオポルドのウィーン訪問は、息子が父親を安心させるためには、これ以上のものが望めない時期に行われたといってよかろう。幼少の時から過保護で、父親に心配のかけ通しだったモーツァルトの、これは最後の、そして最大の親孝行だったように思われる。

 親孝行といえば、レオポルドが滞在中に、モーツァルトの家で、ハイドンを主客とした弦楽四重奏の演奏が行われたことがあった。モーツァルトにはハイドンに献呈した6曲の、いわゆる「ハイドン四重奏曲」というすぐれた弦楽四重奏曲があるが、その後半3曲が演奏され、ハイドンはレオポルドに、「神にかけて申しますが、あなたの息子さんは、わたしが知っている中では、最大の作曲家です。趣味もよろしいし、作曲の知識もすぐれています。」と激賞した。当時ヨーロッパで最高の名声を得ていたハイドンが太鼓判を押してくれたのである。レオポルドがそれを聞いて狂喜し、感激したことは想像にかたくない。

 レオポルドのウィーン滞在中に耳にした、息子モーツァルトの作品演奏の中核をなすものはピアノ協奏曲で、ウィーンの聴衆が期待したのもまたピアノ協奏曲だった。この時代には、交響曲はまだベートーヴェン以後のような重要さを備えていなかったのである。

 ウィーンでピアノ協奏曲の需要が高かったことは、モーツァルトが作曲した全27曲(そのうちの4曲は、他の作曲家の作品の編曲)のピアノ協奏曲中、ウィーンで作曲されたものが断然数も多く、質もすぐれていることからもわかろう。特に、1784年(28歳)から1786年(30歳)までの三年間だけで、「第十四番」から「第二十五番」までの12曲ものピアノ協奏曲が作曲されており、その密度の濃さには驚く。1785年はことに圧巻で、レオポルドが足を留めている一ヵ月半の間に、モーツァルトのピアノ協奏曲中、最も人気のある「第二十番」と「第二十一番」の名作があいついで初演されたのであるから、レオポルドも父親冥利に尽きるといえよう。

 一般にピアノ協奏曲という音楽の分野は、ベートーヴェンによって完成されたように思われているが、このモーツァルトの果たした役割は決してベートーヴェンに劣るものではなく、むしろそれ以上のものがあったといってよかろう。たとえば、モーツァルトの研究家、アルフレート・アインシュタインは、次のように言っている。

 

 「ピアノ協奏曲においてモーツァルトは、いわばコンチェルト的なものとシンフォニー的なものとの融合の決定的な言葉を語った。この融合は、より高い統一への融合であって、それを超えてゆく進歩は不可能だ。なぜなら、完全なものはまさに完全だからである。」

 

 要するに、アインシュタインは、モーツァルトのピアノ協奏曲を彼の器楽曲中の最もすぐれたものとして評価しているのである。そして彼はまた、ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、モーツァルトのピアノ協奏曲のうちの、ただ一つのタイプを発展させたものにすぎないとも述べている。いずれにせよ、ベートーヴェン流の男性的なピアノ協奏曲の尺度からモーツァルトのピアノ協奏曲を判断してはいけない、というわけである。事実、モーツァルトのピアノ協奏曲は、他の作曲家の作品の編曲で、習作的な意義しか持たない初期の4曲(「第一番」から「第四番」まで)を除いてはほとんど駄作がなく、大部分が演奏会やレコードでしばしば聞くことができる。

 このいずれ劣らぬ傑作ぞろいの中から、一曲だけを選ぶというのは至難なことだが、この「第二十番ニ短調」か「第二十四番ハ短調」ということになろう。この2曲はモーツァルトの全ピアノ協奏曲中、短調で書かれた数少ない例で、その意味でもほかの作品とは際立った特色を持っている。

 ついでながら、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で短調で書かれた作品が極端に少ない理由を考えてみたことがおありだろうか。考えられる理由は一つしかない。その頃の協奏曲は、独奏者のテクニックをことさらに誇示するために、華やかな性格の長調が好まれ、暗い感じのする短調は、あまり歓迎されなかったからである。これは、いわば当時の協奏曲としての絶対条件であった。

 ところで「第二十番」は、ニ短調という暗い、デモーニッシュな調整が選ばれているせいか、他の長調で書かれた曲が明るく華麗なのにくらべると、大変悲劇的な色調の濃い作品で、この曲からは、モーツァルトの悲哀の涙と溜め息とを聞くような思いがする。

 悲劇的な性格の第一楽章と、やさしさと寂しさのいりまじった第二楽章ロマンツェの素晴らしさ。この曲は、一度聴いただけで人の心をとりこにする不思議な魅力を持っている。構成的にもしっかりとしていて、そのシンフォニックな劇的な性格は、ベートーヴェンの到来を予告しているといえよう。

 事実、ベートーヴェンがモーツァルトのピアノ協奏曲の中で最も熱愛したのはこの曲で、自らカデンツァを作曲している。

 

 

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