古典の部屋
 

文献へのアプローチ (2007年6月22日記)

 

 古代史の好きな人なら、誰でも真っ先に読みたいと思う書物が、日本書紀であり古事記ではないだろうか。ただ残念なことに、単に好きだというだけの私のような素人には、文献そのものへのアプローチは不可能だと言える。そもそも原文に接する機会がないばかりか、仮に運良くそれを目の当たりに出来たとしても、まったくの専門知識に乏しいままでは、いっそうの混迷を懐だけに終わってしまう。

 

では、どうしたら収まらない古代史への憧憬を満足させるのか、と言えば、やはり多く出版されている解説書とか案内書の類を読み漁ることしか方法はないのだろう。勿論、その選び方によって、さまざまな学説や通説といわれるものに遭遇するが、それはやむを得ない。ゆくゆくは、自ら原文に接することによって、自由な古代史像を描けることが出来たら、と思ってはいるのだが...その道のりは、かなり険しいようだ。

 

ここ数年で、私自身も朧気に古代史の映像が浮かんできている。勿論、古代史を扱った映画やドラマはほとんどないのだから、私が思い浮かべるのは、もっぱら読み漁った書物に拠るところが大きい。それは、史実なのか、という専門家の自問など不要で、こんな風に考えたら、自分なりに古代史がすっきり描かれる、と言った安易なものかもしれない。「記紀」を基本とし、そこからスタートしている古代史研究を補う形の「古書」、これもまた多くの出版物がある。考えてみれば、日本の歴史、ことに古代史に関する研究の大きな飛躍は、やはり戦前の皇国史観の呪縛から解き放たれた戦後に始まっている。それ以前に顧みられなかった「古書」の類もまた、研究対象となり、中には偽書も多く氾濫しているらしい。ただ、江戸時代に偽書と決め付けられた「先代旧事本紀」のように、なぜ偽書となったのか、学者たちの継続的な研究の結果、そうとも言い切れないものもある。そもそも、「記紀」と大きく違う内容の史書については、まず疑いの目を向ける、それは大前提のように思われて仕方がない。

 

「記紀」にしても、まさに同時代性の史書(古事記は正史ではない)でありながら、多くの相違点を持っている。一人の人物像に、まったく違う観点からの表現が多い。たとえば、「やまとたけるのみこと」。日本書紀での「日本武尊」は、父景行天皇を補佐する、武勇に優れた皇子でありながら、古事記の「倭建命」は、双子の兄殺しから始まり、父親に疎まれ、その荒々しい蛮勇振りと哀しみを、悲劇性を持って描かれている。まさに日本書紀が正史として編纂されたのなら、古事記は文学書にたとえられるような構成になっている。


 そもそも、ほぼ同じ時代に、同じような史書が編纂されると言う不思議なことが行われている。勿論、このことについては、多くの研究でその編纂趣旨の違いも我々は知ることができるが、それにしても...。あらためて思いつくのが、やはり「記紀」は7世紀末に編纂の指示があり、8世紀初頭に成立したという事実を考えたい。つまり、編纂当時から辿りえる過去の事跡は、事実に近いものがあったとしても、更に遡る何百年も前、ましてや神代の事跡など、確かな資料が存在していなかったと推測される時代のことなど、どうして正史という公文書に書き残せるのだろうか。中国のように、歴代王朝の成り立ちの趣旨、そして腐敗に起因する討伐された歴史を、次の王朝が最優先で残す正史とは、明らかに違っている。


 私は、ここ3年の間、何かと無精癖が染み付いて、さっぱりこのHPの更新を怠っていた。しかし、その間にも出来る限りの本を読み、奈良を歩いた。勿論、研究者の視点ではなく、普通の観光客のつもりで、奈良の古代から息吹いている空気を堪能したかったからに他ならない。そして、感じたこと。奈良は、歴史のある時点で、その成長を止めてしまった。そうとしか思えない。奈良の後に、歴史は京都へ、東京へと流れ、再び奈良に戻ることはない。大和盆地に出現した古代のエネルギーが、そこに留まっているように思えてならない。京都から現代までは、その流れは遷都という同じ過程でありながらも継続性を感じるが、奈良から京都、これはまったく異質な時代の遮断を感じてしまう。貴族社会が確立されて、天皇という絶対権威者の時代が、京都を舞台として始まっている。それに引替え、奈良時代以前を描いてみると、確かに貴族社会の芽生えは生じているが、そこにはまだまだ古代からの生々しい闘争が感じられる。天皇家でさえ、自身の手で権力を勝ち得てきた一有力者になっている。自然に対する「畏敬」「畏怖」を利用して「神道」をたくみに人民統治に刷り込ませ、国家としての土台が出来つつあると、文化や土木技術などの実際的な「仏教」を取り入れ、さらに統治を万全にしようとした。この国家創造のプロセスこそ、奈良の魅力ではないかと思う。


 今、どうしても知りたいことがある。それは、「記紀」に書かれている「紀年」の実体のこと。歴史書には、当然その事跡を述べるに当たって、「紀年」は欠かせない。ならば、8世紀初頭の編者たちは、どんな史料を基に何百年も前の歴代の王たちの事跡を知りえたのか。それが、家伝のような、有力氏族に残る口伝であっても、「いつの時代」という捉え方は、いかなる暦法を持って伝承しえたのか、という大きな疑問を私は感じている。干支による紀年が中国で利用され始めたのは、確か紀元前後だったと読んだ記憶があるが、となると日本にそれが伝わったのは、更に充分な時が必要だったはず。「記紀」に描かれている神武紀・記の神武即位が、どうして紀元前660年になるのか、それが不思議でならなかった。その設定の仕方は、幾つか説があって、なるほど、と思われるが、その初めの大きな偽計から人代史は始まっているのでは、と。暦法の根拠が解らない歴史は、歴史ではなく「昔話」と同じだと思う。勿論、神武架空説に飛躍するのではなく、その実体は何なのか、それも古代史の魅力なのかもしれない。神武の東征が史実なら、それは九州とはまったく違った古代国家が、近畿にあったことに他ならない。もう一つの「天孫降臨」があった、「記紀」には確かにそう記されている。


 日本の古代史を埋める史料は、多く半島や大陸の史書にも残されている。その事跡と「記紀」が合致しないことも多い。古代史は知れば知るほど、迷宮に入り込んでしまう。

 

古今和歌集へのアクセス (2004年5月31日記)

 

 

 

 

 

 

 もう一つのサイトに、万葉集を中心とした私の思い入れを書いている。そもそものHP作成スタートのテーマは「万葉集」だったので、今でもやはり中心にしたいと思っている。

 しかし、このところのアクセス状況を見ていると、はるかに併設の「古今和歌集」に集中している。「古今和歌集」がらみで検索すると、何とか私のサイトに到達するようだ。せっかく苦労して訪れたみなさんには申し訳ないと、思い始めた。というのも、そのサイトでは、どうしても「万葉集」に力が入ってしまって、「古今和歌集」は、それほど熱心ではなかった。勿論、万葉集に限らず、古今集にしても、歌論を語れるほどの知識もないが、自分の思い入れがストレートに表現できる「万葉集」にくらべ、「古今和歌集」は、どうしても構えてしまう。

 併設した意味にしても、単純なものだ。「古今和歌集」編纂の意図が、ほぼ200年前に詠まれた歌を中心にした「万葉集」を意識しているからに他ならない。当時漢詩文隆盛の中で、初めて「やまとうた」を編纂できる勅命を受けたときの選者たちが、どれほど「万葉集」以来の和歌集を選べる喜びを感じ得たことか。その気持ちが、私なりに微笑ましく思えて、「古今和歌集」のページを設けることにした。

 日本最初の勅撰歌集が、万葉集を意識し、その巻数をも万葉集に倣うように20巻としている。


 だから、私にとっては、「古今和歌集」は、歳の離れた兄を慕っている「弟」のように思えてならなかった。 

 そう書けば、間違いなく専門家の方々から批判を受けると思う。しかし、そもそも歌の解釈は、専門家諸氏の解釈に合わせる必要はないだろう。その歌によって、自分が受けた影響が事実であり、それが必ずしも専門家の解釈とは一致するとは限らない。作者の意図を汲み取る必要も確かにある。それも大切だと思う。と、同時に、その歌を自分が気に入る何かが存在するはずで、それは個々の環境や心情に絡めて解釈してもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私にとって、「万葉集」も、「古今和歌集」も、あるいは他の歌集にしても、率直に私に語りかけ、そして常に私の心に響いているからこそ、いつまでも、いつまでも読み続けていけるのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これまでは、と言っても私がHPから離れる前までだから、もう1年半ほどになるが、「万葉集」のページと違って、「古今和歌集」のページは、原則として歌番号順に掲載していた。別に深い意味はないけれど、敢えて言えば、毎回歌を選ぶ手間を惜しんだといえる。それは、実に「古今和歌集」の愛好家の人たちには不遜な言い方だったと思う。「万葉集」の片手間の作業、といっているのに等しいことになるのだから。


 「古今和歌集」にも、「万葉集」に劣らず直截てきで、熱情的な歌が多い。

 特に、巻第十二 恋歌二 歌番号615

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      いのちやはなんぞはつゆのあだものをあうにしかへばおしからなくに     とものり

         命やは何ぞは 露のあだものを あふにしかへば惜しからなくに

 

 

 この歌など、冷静に読んでもいいだろうし、私だったら

      俺の命なんぞ、お前に逢えることと引き換えならば、いくらでもくれてやる!

と、なってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 専門家諸氏には、そんな言い方はないだろう、と言われそうだし、「露のあだもの」って何だい?とも訊かれそうだ。

 しかし、そんな説明をする必要など、この歌の意からすると、まったく必要がないと私は思う。「俺の命なんて、露みたいに取るに足らないものだから...」。そんな前置きしなくても、「露のあだもの」という語句によって、私は、あんな語調のいい方に素直になれる。その語調をリードしているのが、私にとっては「露のあだもの」になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この歌を引き合いに出した意味は、その私的解釈ではなく、この歌番号615というのを考えたかったから。

 私の従来のスタイルでいけば、615番目に取り上げる歌ということになる。それは、本当は一番読みたい歌であるにもかかわらず、この先何年もかかってしまう。そのもどかしさもあった。では、何故そんな意にそぐわない原則を設けたのか、ということになり、その答えは、やはり片手間の作業だった、ということになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内容はともかく、せっかく多くの人が「古今和歌集」に惹かれて、不本意にも私のサイトにやってきたとしても、せめて少しは微笑んで欲しいとの願いから、また書き始めていこうかと思っている。そして、原則を取っ払って、自分でその時の気持ちに合った、あるいは取り上げたい歌を、日ごとに追いかけて行きたい。

 勿論、これをきっかけに、「万葉集」も再開していこう。

 放りっぱなしのサイトに訪れてこられた人たちに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも作成当時の意気込みが戻ってこなかったけれど、ようやく今、その勢いが甦ってきたように思う。

              

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