古語の謎 白石良夫


    はじめに

 高等学校では、国語という教科が、おおきく現代文と古典とに分けられ、古典はさらに古文と漢文に分けられる。漢文はさておいて、日本語文の現代と古典の境界線は明治維新のところに引かれている。それ以前を古典、それ以後を現代(または近代)というふうに。

 といっても、この区分けは、あくまでも形式的、便宜的なものである。したがって、自立した学問である国語学国文学なら、それにとらわれるべきではない。ところが、古典と近代というこのステレオタイプな区別は、多くの大学の国文科に根強くある。カリキュラムでまずこの区分けが優先されるのであるが、それだけではない。教員の多くが、知ってか知らずか、みずからの専攻をそのような分類に当てはめてしまって、たがいに棲み分けようとする。大学入学以前の機械的な枠組みが、一人前の国語国文学者になっても刷り込まれて、明治維新に深い溝というか高い垣根というか、そんなものが存在するのだと錯覚している。

 言語についてもおなじで、「古語」」と「現代語」の違いはだれにとっても客観的に自明なものだ、と思い込んでいるひとが多い。古語は現代語と断絶している、と。だから、国語辞典(現代語)と古語辞典との境界線も、すでにできあがったものとして存在するのだ、と思っている。

 本来が相対概念である「古典」「近代」、「古語」「現代語」を絶対概念として把握するからである。

 そもそも「古い」と言うときのその基準は、相対化されたものである。江戸は明治よりも古く、しかし明治は昭和より古い。考え方が古い、となにげなく言ったときでも、そこには相対化された基準意識がはたらいている。だから、「古典」といった言葉も、相対化されてつかわれるべき一般名詞である。なにが古典でありなにがそうでないかは、時代により社会により個人によって、あるいは文脈によって異なってくる。

 『源氏物語』につかわれている言葉の多くは作者の現代語であった。が、江戸時代の人間にとって大半は古語である。芭蕉の俳諧は元禄の現代語で表現されるが、平成のわれわれには、古文である。擬古文といったときのその「古」は、たとえば露伴や一葉の場合だと江戸時代(とくに西鶴)であり、秋成の場合だと奈良時代であり、兼好法師の場合だと平安王朝時代、ということになる。

 現代人が認識する「古語」は、最初から古語辞典にある古語としてあったのではない。時代によって書き替えられてきた。そして、これから先も書き替えが続くのである。既存の古語の意味や用法の書き替えだけではない。「古語」があたらしく作られることさえある。そしてまた、存在の事実が否定されることもある。

 古語の認識のされ方の歴史、それが本書で描出したいことである。古語そのものの歴史ではない。「古語認識の歴史」である。これを語ることによって、江戸時代に興ったあたらしい古典学である「古学(いにしえまなび)」を語り、古学を語ることによって、「古語とは何か」といった問題を相対的に考えてみたい。

 第一・第三・第四・第七の各章で、古語とその認識のされ方、それをめぐる現象を論述した。取り上げる古語が特定されすぎて偏りがあるか、との危惧もないではないが、素材を具体化することによって、概説に流れることを避けたためである。次は、その背景にある古学の歴史を語ることによって埋めた(第二・五・六・八章)。

 なお、この日本古典学をさして、一般には「国学」という呼称がつかわれるが、本書では「古学」という語を使用する。

 この学問は、幕末から昭和十年代にかけて、「国学」という名のもとに国粋主義・皇国史観の鼓吹にはしった歴史をもつ。そのため、思想的・宗教的な色合いがどうしても付きまとう。

 個人的な感覚の違いだといってしまえばいいのだが、わたしのなかでは、それが本書であつかう内容との温度差を生んでしまう。いっぽう、宣長をはじめとする古典学者が言う「古学」とは「ににしえまなび」であり、この学問の性格を適切に言い表した呼称だ、とわたしは思う。

 本書では、この学問を「古学」と呼びたい。

       目次

 第一章   創作される人麻呂歌
 
   「ひむがし」が歌語になるまで
 ・疑惑の人麻呂歌
     ・人麻呂の歌を人麻呂の作風でないという議論
     ・ほんとうはどう詠んだのかはわからない
     ・定着していた「あづまのの・・・」
     ・篤実な学僧の慎重な試訓
     ・荷田春満の冒険
     ・「ひむがしののにかぎろひ」の成立
     ・乗り越えられない真淵の訓
     ・「ひむがし」は歌の言葉ではなかった
     ・歌語から排除されるもの
     ・歌語「ひむがし」の誕生
     ・アララギ派歌人たちへの影響
 第二章   「秘す可し」を乗り越えて
 
   近代化する古典学
 ・宣長の描く近世古学史
     ・生き延びた古今伝授
     ・戸田茂睡の反乱
     ・契沖の古学―秘伝秘説の超克
   ・荷田春満と賀茂真淵の江戸進出
     ・「神の国」の人、本居宣長
   ・「松坂の一夜」
     ・『古事記』を先とすべし
     ・いにしえの道を知る
     ・古語と古文の理解とは
 第三章   幻の万葉語たち
 
 江戸時代に生まれた古代語
 ・上代の日本語表記法
     ・戦後に消えた上代語音「ヌ」
     ・知識と感覚の落差
     ・契沖のいだいた違和感
     ・荷田春満の明答
     ・上代音「ヌ」説の定着
 
 ・江戸時代にしか存在しなかった上代語
     ・ほんとうに幻の古語なのか
 第四章   濁点もばかにならない
 
   架空の古語の成立
 ・杜撰な本文、厳密な本文
     ・古典テキストの清濁
     ・濁点をうち忘れたのか
     ・「おごめく」非実在の可能性
     ・「おごめく」は「おこめく」だ
     ・碩学羅山のケアレスミスか
     ・耳からの情報、目からの情報
     ・『源氏物語』のスタンダードも「おごめく」になる
     ・地球が動いていなかった時代
 第五章   銭湯の古典談義
 
  大衆化する古学
 ・真淵没後半世紀の江戸市中
     ・古典研究の基礎作業―定本をつくる
     ・古学による古典書写校合―『宇津保物語』を例にして
   
 ・まず古言を知るべし―擬古文のお手本
     ・尚古趣味と風雅の道
     ・古学の大衆化
 第六章   発見の時代
 
   古学の充実
 ・古学流行がもたらすもの―新資料の出現
     ・新資料の出現がもたらすもの―古学の進歩
     ・「群書類従」の功績
     ・学問・芸術の庇護者、松平定信
     ・『旧事紀』は偽書にあらず
   
 ・擬古文の傑作と近世の偽書
     ・檜垣媼の自作像の話
     ・天明という時代と金印騒動
     ・すぐれた偽書は好ましい社会の副産物
 第七章   鈴虫はちんちろりんと鳴いたか
 
   古学の呪縛
 ・きりぎりすはキリキリ鳴かない?
     ・通説への疑問
     ・混乱を避けるために
     ・チンチロリンもリンリンも人間の言語である―擬声語の成り立ち
     ・平安時代に記録された虫の鳴き声はない
     ・最初の擬声語の用例
     ・松虫はリンリンともチンチロリンとも聞きなされていた
     ・屋代弘賢の考証を考証すると
 第八章   古典解釈の江戸と京都
 
   反古学派の古典享受  ・江戸時代の『万葉集』
     ・読者が読む古典テキスト
     ・旧訓が駆逐されたわけではない
     ・江戸の中の京都
     ・学界の棲み分け
     ・「素直」という技巧
     ・古学に相対する人―「ただこと歌」と「調べの説」
     ・香川景樹の古学批判
     ・原理主義的解釈という陥穽
     ・堂上派歌人の揶揄
 終 章   作者自筆本という幻想
 
   古学の限界  ・古学の先蹤―日本儒教史
     ・漢学の「古学」、和学の「古学」
     ・「やまとたましい」と「からごころ」
     ・いにしえ幻視―神代文字の出現
     ・近代的な古典理解の落とし穴
     ・研究対象のスケールと研究者のスケール
     ・文献学の脆さと危うさ
     ・作者自筆本はなぜ残っていないのか―写本のメカニズム
     ・末流本文の再生産こそが古典学の営み

    あとがき

 わたしは本書で、近世から近代にかけての古典・古語の研究の歴史について、誤解・誤読や荒唐無稽な学説、贋作・捏造の存在をも視野にいれながら、思考してみた。執筆にあたってひそかに心掛けたのは、近世の古典学が近代・現代のそれと連続しているのだという視点を一貫させることであった。

 幕末から明治にかけて、おおくの学術分野では、近代化とは西欧化を意味し、西欧化は前近代の切捨てを意味していた。そんななかで、日本古典学は前近代(江戸以前、非西欧)を墨守した稀な分野である。

 近代の古典学の進むべき新しい道は、江戸時代の古学にあった。このことは、明治三十年代、夏目漱石とともにヨーロッパに渡ったひとりの国文学者によって強烈に自覚された。

 漱石のイギリス留学について語る人は多い。だが、漱石とおなじ使命を託されてヨーロッパに旅立った国文学者のことを知る日本人は、いまとなってっは少ない。おなじ国文学者でさえ名前を聞いたことがあっても、もはやその業績は忘れているだろう。ましてや明治三十三年に漱石とおなじ船上のひとだったことを知っているのは、よほどの国文学史通である。

 この国文学者を芳賀矢一という。東京帝国大学の若き講師であった。矢一は、パリで漱石と別れ、ベルリンに向かった。かれが大学から命じられた研究課題は、ドイツにおける文学研究の方法論であった。ここでその留学生活をかたることはしない。ただ、神経衰弱になやむロンドンの漱石を尻目に、意気揚々と帰国した、ということだけは言っておこう。

 なぜ、矢一は自信満々で帰ってきたのか。

 かれがかの地で接したのは、当時のドイツで主流だった Philologie 、いわゆる「文献学」と訳される学問であった。矢一にとって、しかし、それはすでに少年のころから馴染んでいたもので、特段の目新しいものではなかった。なんだ、これはおやじたちが抱いていた精神、おやじたちがやっていた方法と同じではないか。わざわざヨーロッパくんだりまで来て学ぶほどのことはない。国学者芳賀真咲を父にもちその父とおなじ道に入った矢一の目には、ドイツ文献学が日本の古学(国学)の精神・方法とほとんど同質のものだと映ったのである。日本の古典学のほうが進んでいるとさえ思えた。かくして、近代の国語国文学は近世古学の方法を継承して今日に至った。それは、このときのこの先学の、この自信によるところが大きい。

 もちろん、これは、ヨーロッパの文学研究法を拒絶したという意味ではない。矢一はドイツ文献学と近世古学の親縁性を発見したのである。ヨーロッパの方法論を受け入れるのに、日本には何の障碍も存在しないという認識からくる自信であった。近代日本の国語国文学は、ドイツ文献学の精神と方法をほとんど抵抗なく受容することができた。なお、ここでは、矢一のドイツ文献学理解が客観的に正しかったかどうかは、問うべき課題ではない。

 矢一は帰国後、東京帝大の教壇に立った。清朝考証学の学風の影響を受け継ぐ京都帝大においても、この文献学はさしたる違和感がなく迎えられたものと想像する。なぜなら、清朝考証学こそ、徹底した文献学だったからである。

 文献学とは、ごく簡単にいえば、つぎのような学問である。まず、伝存する古典の諸写本の本文を比較・整理・検討する。これを本文批判(テキストクリティーク)という。その目的は、すでに失われた原文の本文にまで到達すること、すなわち原型の再建(復元)である。再建された原型に基づいて、作品の様式や言語や思想といった古代の文化像を解明してゆく。その対象とするところは、近世古学はおおむね奈良・平安時代、ドイツ文献学は古代ギリシャ・ローマ、清朝考証学は漢代以前であった。

 あるいは、矢一は、第一高等学校教授山井清渓の家祖、山井崑崙のかがやかしい業績のことを知っていたかもしれない。崑崙は荻生徂徠の門人、その著書『七経孟子考文』二百巻(享保十一年<1726年>成立)は、七経(『易』『書』『詩』『礼記』『春秋』『論語』『孝経』)と『孟子』を、下野足利学校に中世以来保管されてあった善本のテキスト類によって校勘したものであった。ときの将軍吉宗がその価値をたかく評価して出版させた。それが中国に渡り、儒教の本場でもまだ例をみない学術的業績として顕彰された。清朝考証学が興隆をむかえるのはその後のことであり、じつに崑崙の著作は本場の学界に先鞭をつけたものであった。崑崙のテキスト校勘のヒントになったのは、日本古典学の「校合」という作業であったといわれる。

 その後、おなじヨーロッパに学んだ高木市之助や岡崎義恵などの日本文芸学を唱える国文学者、風巻景次郎のような歴史社会学派なども出現したが、国語国文学界の主流は、近世古学を継承しながらドイツ文献学と清朝考証学の方法を取り入れた、東京・京都の両帝大の学風であった。ちなみに、高木は九州大学、岡崎は東北大学、風巻は北海道大学がそれぞれ活躍の場であったが、一世代前の東北大学だけがかれらの学風を受け継いでいた。高木は九大より京城帝大の方が長かったが、ここではそれは勘定にいれない。

 かくして、わが国語国文学研究は、ほかの学問分野が「泰西に学べ」を合言葉にその伝統と蓄積を蓄積を断ち切らざるをえなかったのを尻目に、江戸時代の豊穣な古学という果実をそのまま受け継いだのであった。いい意味で、自分を失わなかった。

 少し洒落た表現をすれば、日本古典学の江戸と明治は地続きであった。江戸時代の「古学(いにしえまなび)」による古代語・古代文学に関する膨大な研究の蓄積があって、その上に立ってそれを乗り越えること、それが近代の国語国文学であった。

 だが、矢一が自信満々であったのは、歴史を相対化しなかった近世古学(国学)の限界を自覚できなかったからだともいえる。留学は、その限界を知る絶好の機会であったはずだ。

ドイツ文献学と国学との同質性しか目に入らなかった楽天家のかれは、国学の限界に気がつくどころか、その優秀性のみを再発見して帰ってきたのである。矢一のこの自信が近代国語国文学の始まりであったのだが、ある意味、それがその後の日本学の不幸の始まりでもあった。

 終章の挿話でひきあいに出した万葉学者。これはわたしの創作なのだが(女子学生の話は本当)、かれは自分の愛する『万葉集』がかつてそれほど大事にされていなかったという事実を言われて、深く傷ついた。愛するものの目には、万葉の世界はたしかに美しいだろう。それをこよなく愛することも美しい。だが、『万葉集』を相対化されて傷つく万葉学者は、歴史を相対化できなかった近世古学(国学)の呪縛から、いまだ解き放たれていないことを意味する。これが不幸なのである、ということは戦前の歴史で証明済みである。

 愛するものを相対化されて腹をたてるのは、自分の恋人ぐらいにしてほしい。いやいや、アバタもエクボというではないか。恋人こそ、自分以外の人間にとっては相対化の対象でいてくれないと困る。

 そういう発想が、古学を継承しながら古学の桎梏から自由になる道であるだろう。

(後略)

 
                                                                                                                                                                     
  2010年11月初旬 美国  ボストンにて擱筆           白石良夫

                

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