シベリウスにしてもそうだ。確かに北欧の透明感をたっぷり鑑賞できるけれど、それは風土的な違い以上に、音楽の主流であるドイツ・オーストリアの重厚で荘厳な響きにはない、異国的な情緒を感じるからではないだろうか。
しかし、その主流であるドイツ・オーストリア音楽では、むしろ「音楽の世界に深く沈潜した何かを探求」することが私には押し付けられているように感じられる。北欧、あるいは、チャイコフスキー以外のロシア作曲家、そして最近まで東欧と言われていた諸国の作曲家達には、「音楽の世界に沈潜した何かの探求」ではなくそれぞれの風土の中で音楽を愛し、育てている気がする。だから、音楽の世界に人々が聴き入るのではなく、人々の営みの中に、必然的に音楽が入り込んでいる。私のような素人が、自分勝手な音楽論を言うつもりはないが、「音楽に国境はない」という言葉は、その言葉自体の誤りはなくても、解釈の間違いは非常に大きな違いになる。「国境があるが故の、シベリウスでありスメタナであり、ヴェルディ」たちの音楽といえる。
チャイコフスキーは、同時代に活躍したいわゆる「ロシア五人組」が、ロシア風土を描いた作曲家であるのに対して、
ドイツロマン派の流れの中で音楽家の名声を勝ち得てきた作曲家といえる。一般的な批評にしても、ロマン派の作曲家として位置づけている。だから、この初期の交響曲は、彼のロシア人としての感性が、まだ未熟な作曲技法の中で中途半端に描かれているかのように言われている。でも、私にはチャイコフスキーの音楽、どれを聴いても、漠然としてはいるがロシアの風景が想い起こされ、決してドイツロマン派の重厚さ、荘厳さは感じられない。これは、中学の頃観た、彼の自伝映画が、大きく影響していると思う。その映像に流れるロシアの美しい風景は、どれもこれもチャイコフスキーの音楽そのものに思える。
この思いを一層強くさせてくれたのが、この「冬の日の幻想」の第二楽章だ。
チャイコフスキーが、自身の交響曲に自ら「標題」を付けたのは、この第1番だけ。しかも、この第二楽章には、やはり副題ともいうべきタイトルが付けられている「陰気な土地、霧の土地」。
弦楽器が奏でるアダージョで、静かに曲が始る。「陰気な土地」のイメージこそ湧かないが、確かに陽気ではない。もっとも、標題の風景を描いた音楽ではないはずで、チャイコフスキーの愛して止まない母国の土地を、自身の感性として描きたかったはずだ。
主旋律は、オーボエそしてフルート。この主旋律が、弦楽器やホルンと受け継がれ、そして重なり、次第に高揚していく様は、まるで歌を延々と泣きながら歌っているようで美しい。目を閉じて聴いていたら、自然と涙が出てくる。そんな哀愁に満ちた旋律を最後まで飽きることなく聴かせてくれる。厳しくも美しいロシアの大地。一度も訪れたことのない大地なのに、何故か郷愁を感じてしまう。旋律が沁み込んでくるような「なごみ」を感じる。音楽に浸透するのではなく、音楽が私に浸透してくる。音楽の世界の沈潜している何かではなく、私の心の底に沈潜している何かを、響かせている。
作品で、その人の人物評価は妥当でないことは承知している。しかし、このような旋律を作れる人を、決して誤った評価はしないと思う。
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