万葉集 本サイト掲載歌番号順INDEX


   「序 『歌番号の意義』」
 
万葉集二十巻
収載歌数については、通常最後の歌番号を「4516」とする「国歌大観」にならい、
「歌の形式」に曖昧な要素を認めながらも、その歌番号で言う「4516首」と、無番の「異伝歌」類を併せ、「4536首」と言われている

しかし万葉集の左注などに書かれる「或本歌に曰く」とか「一本に云う」など、それが「一首」の形態を備えている限りにおいては、
それも「一首としてカウント」される、その基準に沿ったのが、「新編国歌大観」だと、大雑把に私は解釈している

勿論、「異伝歌」や「小異歌」など、たとえば「地名」や他の「固有名詞」が違っただけのものだとしても、
「万葉歌」における「地名」や「固有名詞」が、その歌の歌意を感じるうえで、とても重要な場面もある
「この地」だからこそ、このような気持ちになって詠われたのだろう、と思うこともある
都合よく、地名だけを入れ替えて、歌に「汎用性」を持たせることなど、出来るはずもない

それでも、万葉の古人が伝え聞いている「古歌」などを、
地元の情感に添うように「地名交換」や「固有名詞交換」など行って「一首」の存在を伝えているのは、
そこに「万葉集の編纂時期」に関わる、「古歌収集」の環境が窺えてくる

時代、地域が違えばこその「異伝歌」であると、私は思う
同時代、同地域であれば、「異伝歌」という形には、なりにくいのではないか、と


[国歌大観]の使命

私は当初、「国歌大観」というものを、ほとんど意識したこともなかった
近代以降の「万葉集」の諸書には、必ず「歌番号」付けられており、いや「諸本」や「諸注」などの現代における「普及版」にしても
まず例外なく「歌番号」は付けられている
したがって、探そうとする「万葉一首」など、苦労もなく探し出すことが出来る
それが、「国歌大観」によってもたらされた恩恵だと、ずっと知ることもなかった
だから、しばらくは「国歌大観」という「名称」まで意識外のことで、苦も無く「万葉解釈」を楽しんできたのだが、
あるきっかけで、それがとんでもなく重要なことに気付かされる

そもそも、「国歌大観」とは、どんな「書」なのだろう
残念ながら、「古典」に無関心だった若い頃が影響して、「国歌大観とは」などと論じられる知識もない
辛うじて、現代のネット環境で、こうした研究者やその成果を、浅くではあっても知ることは出来る

「書」としての「国歌大観」の分類は「和歌索引書」、とある
明治34年~36年(1901~1903)に刊行されたもので、
これにより「万葉集」などの歌集や、「物語り」に出て来る「和歌」が、「どの書、あるいは歌集」に載るものか、
すべての「書」ごとに「歌番号」が付けられることになった
「国歌大観歌番号」というのは、言わば「和歌の住所」と言える

そこで疑問が湧いてくる
「国歌大観歌番号」が、明治後半に成った「検索システム」であれば、それまで何気なく「諸本」や「諸注」に触れていた「あの番号」は...
当然、「国歌大観歌番号」が付けられる以前の「書」であれば、「歌番号」などあるはずもない

それでも、当たり前のように、「この歌は、第何巻の何番」と付記されるものがほとんどだ
それが、現代人への、ある種の「気遣いであり、便宜」を図ったものであることにようやく気付く
「諸本」や、明治以前の「諸注」に「歌番号」がない、少なくともその点においての「オリジナル」に、
私が接していなかっただけのことだ
だから、意図的に古書店で、そうした「古注」などを買い求めるようになると、
当然、その「書」には、「歌番号」は付記されていない
これは、相当厄介な「書」となる

何しろ、探し出す歌に到達するのに、その手掛かりは、その当該の歌前後数首を意識していないと、なかなか見つけられない
これは、思った以上に厄介なことだった
私のように、単に「一首」に親しむだけなら、やっと探し当てた、という満足感があるが、
研究者となると、その一首の「類歌」、「類想歌」など、そこからどんどん展開させなければならない

初めての万葉集全巻注釈となる、北村季吟「万葉拾穂抄」、続いて契沖「万葉代匠記」、また鹿持雅澄「万葉集古義」など、
江戸時代の研究者、国学者たちの「注釈書」を集めてはみても、そのページに綴られた一文字一文字は、
そこに籠められた、著者の膨大な見識と時間が凝縮されているように思え、ただただ圧倒されるだけだった

今でこそ、要領も覚え、それほど手間を掛けずに目的の歌を探せるようになったが、
当時の研究者には、一首ごとのその所在が、おそらく頭の中に描けていたのだろう
少なくとも、明治以降の研究者にとっては、その負担はない
そう思えば、「国歌大観」で「歌番号」を付記する必然性というのが、切羽詰った学者たちの緊急の願いだったのだと思う

ここで言う「国歌大観」は、何も「万葉集」に限ることではなく、あらゆる「和歌の出典」の「索引」を成しており、
その点で言えば、「万葉集」に限れば、かなり異質な採り上げ方になっている

現代でも、誰がどんな意図で編纂したのか解らない「万葉集」、
それ以降の、勅撰和歌衆時代になると、少なからず「編纂の動機」が記されているものの、
「万葉集」には、多くの「伝本」があり、どれもが一長一短で、現代で最も多く「校本のため」の「底本」として用いられている鎌倉末期の書写「西本願寺本」や、
江戸時代の寛永年間(寛永二十年〔1643〕)に刊行された「寛永版本」を「底本」とした、明治時代末期、大正年間の「校本万葉集」などがある

「諸注」が、どの「諸本」を「底本」としているか、それが大きく影響している
「国歌大観」は、これらの中で、「寛永版本」を「底本」としている、とされる
今では、この「寛永版本」の評価は芳しくないものの、それに基づく「万葉歌の表示基準や歌の順序」が継承されたままにあるのが、現代の「万葉集歌数」になる

「国歌大観」が「歌番号」を付記したことで、それを利用した近代の万葉集の諸書は、単に研究者だけでなく、多くの万葉集ファンを作り出したと思う
俄か研究者のごとく、どんな人でも「一首」からの想いの広がりが、「万葉の宇宙空間」を身近なものに感じさせた


[新編国歌大観]の意味

「国歌大観」の「無番号の歌」に加え、「漢詩四首」にも「歌番号」を付記させたものが、「新編国歌大観歌番号」だ
「国歌大観歌番号」と、「新編国歌大観歌番号」の相違が始まるのは、具体的に言えば「巻第三」の冒頭に始まる

巻第三 雑歌 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 
 国歌大観  新編国歌大観
235 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも 235 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
 右は、或本には「忍壁皇子の献る」といふ。その歌には
   大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
 右は、或本には「忍壁皇子の献る」といふ。その歌には
236 大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます国歌大観
 〔次の一首 天皇賜志斐嫗御歌一首〕
236 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり 237 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり

この「或本曰く」のような「異伝歌」などの扱い方の解釈の相違が積み重なって、最終的に「二十四首」もの差異が生じている
「新編国歌大観」での最後の「歌番号」は、「4540」であり、「国歌大観」最後の「歌番号4516」の一首になる

私は、当初こうした「歌番号」の問題について、「異伝歌」などでも、一首を構成しているのであれば、カウントするべきだ、と強く思っていた
この「HP」を作成するときも、その思いがあり、結果的にどの歌であっても、すべて「新編国歌大観歌番号」で統一している
自分なりに、それが正しいことだ、と思っていたから...何しろ、「一首を味わえる歌」なのだから、と

しかし、今ではそれも、以前ほどのこだわりはなくなっている
と言うのも、「国歌大観」で「歌番号」が付記されて以来、数多くの「注釈書」が刊行されている
「新編国歌大観」の刊行は、1983年から1992年にかけて、とされる
「国歌大観」刊行から、80年以上経ての刊行だ
しかも、その間に「国歌大観」によって与えられた歌番号が、弾みをつけたように「研究書」や近代的な「注釈書」を生み出している
そうなると、その時代に書かれた「研究書・注釈書」の歌番号は、それが「訂正されるべき歌番号かもしれない」ものであっても、
書籍として、新しい解釈研究のベースになるのなら、新しい「歌番号」への変更は、混乱しか生まなくなる

例えは的を得ていないかもしれないが、先端技術に関する研究書なら、過去の「技術解釈」はその都度改訂され、
その類の過去の「技術書」は、現時点での先端技術として活用されるのではなく、「技術革新史」として残されていく
常に、新しいものへ更新されるからこそ、技術の進歩が継続される
しかし、「歌番号」というのは、どうなのだろう
それ自体、仮に本来の正しい「歌番号」として認識はされるべきものであっても、
「旧歌番号」で記された「研究書・注釈書」が、決して古くて役に立たないものではなく、現代でも息づいていることを思えば、
新しい「歌番号」で研究している研究者が、幾つか過去の文献の用例を挙げる中、その「歌番号」とは一致しない
そんな現象が起こりうる

「新編国歌大観歌番号」を積極採用している「書」は、あまりない
古語辞典でも、その語意の用例で引用する際の「万葉集の出典」は、ほとんど「旧歌番号」であり、「新歌番号」のものは、ほとんどない
それほど、「旧歌番号」で定着している「万葉集研究」ということなのだろう

もっとも、ただ一首ごとの味わいを楽しむだけなら、このような意識は必要もないだろうが、
私のように、その世界観を、もっと拡げたい、そして古人の解釈による「感性」にも触れたい、と思うと、
どうしても、「歌番号」という厄介な現実に手を焼いてしまう

幸い幾つかの書では、「旧歌番号と新歌番号」併記している
いや、「新歌番号」表記だけの書は、きっとないと思う
手頃な文庫本で、角川文庫・伊藤博校注「万葉集-新編国歌大観準拠版-」や、ネット契約している「新編国歌大観」そのものも、
「旧歌番号と新歌番号」の併用なので、むしろ「併用」であるからこそ、他の書との確認展開が行える

とは言え、このサイトですべて「新歌番号」表記していることを、今更「旧歌番号」併記にするなど、それも相当な手間が掛かるので、私には出来ない

私の自己満足で始めたこの「ことばに惹かれて」...
決して研究者でもないのに、「何が正しい姿なのか」とか、「何が合理的に歌意解釈の理解に繋がるか」など、
そんなことを考えるのはよそう
やはり、HPを始めて当初のように、自分が好きなように「書き残したい」という欲求だけで、すすめて行こうと思う

尚、歌番号の具体的な相違点の詳細は、本サイトの「全巻の構成index【万葉集全巻の構成及び歌数】」に載せている